「ゲイリブ」「LGBT活動家」「パレード」をめぐるあれこれ~「週刊新潮」に掲載された記事をきっかけに~

 ここにあえて私の名は記さないが、内容や文章のクセ等から、きっとわかる方にはおわかりいただけるだろうと思う。もちろん強制はできないけれど、もし誰が書いたかわかった場合でも、コメント欄等で私への呼びかけをなさる際には、「X(エックス)さん」とでも記していただけると幸いである。

 

 以下、「週刊新潮」に掲載されたJ・K氏の文章をきっかけに、心に浮かんだよしなしごとを書いてみた。

 私自身が見聞きしたことは、隠すことなく率直に書いているつもりだ。ただ、あくまでも「私の目にうつり、私の頭が解釈し、記憶していること」にすぎないので、「私が知らない事実」については漏れているだろうし、知らず知らずのうちにバイアスがかかっているかもしれないし、記憶が違っていることもあるかもしれない。また、最近の「活動家」の動向や「LGBTビジネス」、パレードについては、さほど詳しくないので、間違っていることもあるかもしれない。

 なので、もし「ここは違う」「補足しなければ」ということがあれば、コメント欄に記していただけると幸いである。私自身は書きたいことは大体書いたので、「どうしても追記しておきたい」ということがなければ、あえてレスをしたり追記したりすることはないと思う。読まれる方は、もし修正コメントなどが入っていたら、併せて目を通していただけると幸いである。

 ただ、もしかしたら事実無根のこと、憶測や妄想に基づいた情報等が書き込まれるかもしれないので、そのコメント内容に客観性があるかどうかだけは、できるだけ厳しく判断してほしい。

 

 数日前、J・K氏が「週刊新潮」に記事を書かれたことについて、私は少々意地の悪い呟きをしてしまった。

 

 以前から時折、氏のツイートは目にしていたが、氏の書かれている内容に、事実と異なる(もしくは誇張されている、ネット等の断片的な情報をそのままお書きになっている)と感じられる点があるのは気になっていたし、氏の主張の一部や、「LGBT活動家」を一括りにして断罪されている点については、いささか乱暴だなとも思っていた。

 

 氏がどのような方なのか、直にお会いしたことがないのでわからないが、おそらく、とても強い自我をお持ちなのだろうと思う。だからこそ、「私は男が好きである。だからどうした」「周囲の理解など必要ない」「結婚など、必要があればすればよいし、必要がなければしなければよい」といった気持ちで生きてこられたのではないだろうか。

 そのような方であれば、「ホモは権利など主張せずともよいし、周りの理解など必要ない」「自分が納得していればよいではないか。それができずに悩んだりするのは本人の責任だ」とおっしゃるのも、「ゲイリブ」を苦々しく思われるのも、とても納得がいくし、それが氏にとっての真実なのだと思う。また、(勝手に決めつけてナンだけれど)氏のそうした生き方を、かっこいいなと思う部分もある。

 

 ただ、性格、抱えている事情、置かれている環境、ストレスへの耐性は人それぞれ異なる。昨今、さまざまな情報にアクセスしやすくなり、未婚のノンケ男女も増えてはいるが、「自分は自分」と一人で自己を肯定することができず、「結婚は結婚」と割り切ることもできず、自分と周囲の違いに悩んだり戸惑ったりしてしまう人は、まだまだいる。私の知人にも、「同性が好きな自分はおかしいのではないか」と悩んだ末、ある程度年齢を重ねてからようやく自分のセクシュアリティを受け入れ、「もっと早くこうなっていればよかった」と後悔している人が何人かいる。私はどうしても、そうした人たちに共感してしまうし、悩み後悔する人が一人でも減るよう、自分にできることは(機会があれば)やりたいと思ってしまう。

 氏が「LGBT活動家がやったこと」と一括りにして断罪しているものの中には、もしかしたら将来、「自分のセクシュアリティに悩む人が減る」ことにつながるものがあるかもしれない、と私は期待しているし、それが当事者からの声によってつぶされてしまうのはしのびない。だから、どうしても氏の書かれる内容には、一言言いたくなってしまう。

 

 とはいえ、氏の言うことにも、「たしかに」と思う部分はある。

 私自身、「LGBT活動家」といわれている人たちの言動に「何やってんの……」と思うことも多々あるし、昨今の「LGBTビジネス」といわれるものの中には、正体がよくわからないものもあるな、と思っている(そして私がやっていることが、他者からそう思われている可能性も十分にある)。

 また、ほかの反差別運動同様、「ゲイリブ」においても、「思い」よりも理念や思想が先行してしまっていたり、「声の大きい人の極端な意見」が目立ってしまったり、共に「活動」している人への「忖度」が働いてしまったり、「小異を捨てて大同に就く」が行きすぎてしまったりしがちな点は、たしかにある(しかしこれらは、「ゲイリブ嫌い」な人たちも同様ではないかと思う)。

 パレードや「ゲイリブ」に関わっている人たちの中には、「セクシュアリティに悩む人が、一人でも減ってくれるように」との思いで参加している人が少なくないはずなのだが、それがいささか見えづらくなっている気がする。

 

 ちなみに、セクシュアルマイノリティのプライドパレード(氏には、おそらくパレード自体不要だと言われてしまうだろうが)について、氏は「左翼にひさしを貸して母屋をとられた」と書かれているが、それは少し誇張された表現だ。氏が指摘されている、「反天皇制」「反日本中心主義」「反人種差別」といったプラカードや主張を掲げている人物や団体は、パレードの主催者側ではなく、あくまでも「参加者」「フロートの出展者」にすぎない。ただ、たとえばネットの記事等でそこがクローズアップされてしまうと、実際のパレードを見ていない人は、偏ったイメージを抱いてしまうだろう。

 

 私は10年ほど前、何度かパレードの運営に関わった。あまりに労力や時間や金銭を費やすことが多く、心身の疲労が激しかったので(みな、身を削ってやっていた。最近はもう少しシステム化されているのではないかと思う)、以後パレードについては、できる範囲で応援をする程度にとどめている。

 なので、最近のパレードの内情はよく知らないのだが、少なくとも当時の運営スタッフは、思想的にはバラバラだった。たしかに「左翼」寄りの人は多かったけれど、中道の人も極右の人もいたし、思想にまったく関心がない人もいた。

 最近は挨拶に来られる政治家の方々も、保守から革新まで、多岐にわたっている。かつては革新の政治家が目立っていたが、当時から運営側としては、あらゆる政党に平等にお知らせし、来るか来ないかは、それぞれの政党にお任せしていた。

 

 しかし一方で、「多様性」「反差別」という理念によって自縄自縛に陥っている部分はあったし、今もあると思う。そのために、私が関わっていた頃も、本来のパレードの趣旨に反するようなプラカードを掲げる参加者や、パレードに参加しながらパレードのあり方を批判し、運営を妨げ(スタッフをいたずらに疲弊させ)るような参加者を「排除」することができなかった。

 だが、「多様性」というのは、何でもかんでも受け入れることではないと、今の私は思っている。多様性社会というのは、「私はあなたを受け入れる」「あなたも私を受け入れる」という、相互の寛容さと働きかけがあって初めて成立するものであり、一方だけが「私はあなたの言うことは聞かないし、あなたのことを受け入れもしないけど、あなたにとっては、多様性が大事なんでしょ?  それなら、私のことは受け入れなさいよ」というのは、やはり違う気がする。

 

 少々話がずれたが、プライドパレードは今後、何かをいたずらに否定するような過激なプラカードを掲げたり、ときには暴言や暴力、恫喝等を用いて自己の主張を通そうとしたりする人・グループの参加を、「なし」にした方がいいのではないかと思う(ただ、禁止事項を無視してそういうプラカードを掲げたり、正当な手続きを踏まずに沿道から「横入り」したりする参加者がいること、それをいちいち注意するのが、ただでさえ忙しいスタッフの負担をさらに増やしてしまうこともよくわかっているので、あくまでも部外者の勝手な意見として、聞き流してほしい)。いかなる理由があろうと、何かをいたずらに否定したり、自己の主張を強引に通そうとしたりするのは、「多様性」とは真逆の行為であり、彼らをそのまま受け入れることが「多様性」につながるとは思えないからだ。

 

 しかもプライドパレードは、基本的には、あくまでもセクシュアルマイノリティのためのイベントだ。反天皇制反日本中心主義や反人種差別について主張したい方は、それぞれ専用のイベントでやるべきではないだろうか。たとえそれらが思想的には、セクシュアルマイノリティの問題とつながっているとしても、主催者側にそれを打ち出す意図がないなら、持ち込むべきではないし、持ち込ませるべきではないと思う。

 「セクシュアリティと直接関係のない主張」が行われることで、本来参加し、楽しんでほしかった、セクシュアルマイノリティの当事者に敬遠されてしまっては本末転倒だし、イベントとしてメッセージをクリアにするためにも、ワンイシューに集中させた方が良いのではないだろうか。

 

 私は、いわれなき「差別」はもちろん、あってはならないと思っている。セクシュアリティ、性別、家柄、人種その他、本人の意思で選ぶことができない(かつ法に触れない)ものについては、とにかく「否定されない」社会であってほしい。

 ただし、「差別を受けている人」=「善人」でもなければ「正義」でもない。差別をなくすということは、「被差別側」とされている人の主張をそのまま是として無批判に受け入れることではないはずなのだが、どうも社会全体的に、その辺が混同されがちな気がする。

 

 そして、「差別側」とされている人であろうと、「被差別側」とされている人であろうと、あらゆる人が「自分の思う『正しさ』が絶対ではない」と、常に心に留めておくことが、とても大事ではないかと思う(わかっていて、あえて戦略的に、「自分たちは正しい」と主張している人の方が多いかもしれないが)。「自分の考えを絶対視する、もしくは絶対だと主張すること」は、物事をおかしな方向に進めてしまう。

 どんなに正しく見えることでも、人間のすること考えることに、100%正しいことはない、と私は思う。もちろん声を上げることは大事だが、「差別憎し」であろうと「活動家憎し」であろうと、自分が正しいと思い込んで相手を攻撃していると、大事なものを見失ってしまうし、どこかにひずみが生まれるだろう。

 

 すっかり長くなってしまったが、これを書いたのは、「活動家」といわれる人たちにも、それに反対したり嫌悪感を覚えたりする人たちにも、「いろいろなものを一緒くたにしてほしくない」と思ったからだ。

 

 最初に書いたように、「ゲイ」の中にも、あっけらかんと自分のセクシュアリティを受け入れてしまう人から、何年も悩んでしまう人、自分が「ゲイ」であることにすら気づかない人まで、さまざまな人がいる。抱えている事情(性格や立場や価値観)が異なれば、同じ出来事に対して抱く感想や印象が違ってしまうのも仕方がない。それは「どちらが正しい」「どちらが悪い」と言い切れるものではないと思う(そして、「ゲイ」ですらこれだけ一人ひとり違うのに、「LGBT」という括りで語ったり語られたりすれば、いろいろと無理も出てくるかもしれないな、とも思う。もちろん、あくまでも「入口」として、まずはいったん括って語る/語られるのも、必要であったり仕方がなかったりする部分はあるのだが、それが一人歩きしてしまいがちなのが難しいところだ)。

 万人に納得のいく答えを出すのはおそらく不可能だし、今後も「利害」が対立することは多々あるだろう。しかし、相互に「自分とは違う事情を抱えている人がいる」と認識する(完全に受け入れることはできなくても、相手の価値観を尊重する)ことで、言動のいきすぎ、批判のいきすぎは、ある程度抑制されるだろうし、できればそうなってほしい、というのが、私の願いだ。

 

 今、それぞれが「何か大きなもの」に飲み込まれたまま、敵対する、やはり「何か大きなもの」に、「批判」という石を投げ合っているような気がする。しかし「何か大きなもの」は決して一枚岩ではないし、個別に丁寧に相手を見、相手の思いや事情を知り、意見を交換し合えば、共感できる部分や、共感はできなくとも理解しあえる部分などが出てくる気がする。その方が、闇雲に石を投げ合うより、よほど建設的なのではないかと思う。

 

 また、J・K氏を支持している方々のツイッターのアカウントを見ると、呟きの9~10割が「LGBT」絡みのこと、という方が少なくない。もしかしたら別にアカウントを持っていて、日々の楽しみごとについてはそちらで呟いておられるのかもしれないが、そうであったとしても、わざわざ別アカウントを作ってあれだけ頻繁に「LGBT」について呟くというのは、相当な熱量だ。「活動家」と「活動家に異を唱える人」は、実はものすごく近いところにいるのではないかと思うし、相互の考えをほどよく混ぜあうことで、もしかしたら思いがけない化学反応が生まれるのではないか、などとも考えてしまう。

 

 今年も5月6日に、代々木でレインボープライドが行われる。

 私が知る限り、今も昔も、パレードのスタッフをされている方の大半は、参加者に楽しんでもらうべく、ボランティアで一生懸命に働いている。そしてすでに述べたように、「活動家」といわれる人の中には、いわゆる「左翼思想」や自身の利益などとは関係なく、「よりセクシュアルマイノリティが生きやすい世の中になってくれれば」という思いで動いている人もたくさんいる。

 

 もちろん、パレードにもそのほかの活動にも、それに不快感を覚える人、「迷惑だ」と感じる人は必ずいるだろうし、先ほど述べたように、そうした人たちがいるという事実を認識することは大事かもしれない。

 しかし、パレードに参加したりスタッフとして関わったり、あるいは「活動家」のなんらかの行動を見聞きしたりすることによって「何でも話せる友だちができた」「自分を受け入れることができた」「生きる力をもらった」という人がいるのも、確かな事実である。

 

 今年の、そしてこれからのパレードや、セクシュアルマイノリティのための「活動」が、一人でも多くの人にとって、「喜びと希望」が感じられるものであってほしいと、私は願っている。